聖書信仰?

 

私は今まで、インターナショナルチャーチ、教会成長を詠う教会に通っていましたが、信仰のいきずまりを感じ、教える隣人愛とかけ離れていると思い、今は年配の方や障害のある方、貧しい方などいろいろな方が来られる教会の聖書勉強会に参加しています。

 

先週も実りある勉強会となりました。私たちの牧師は、教会の組織、欲望など全くなく、使命に全うしている方です。そこで学んだことをまとめていきます。

 

教会員を増やすことが目的になると

 必ず欲が出てきます。そして人を縛ろうとしたり、律法主義に陥ったりします。人は縛ると、上の人がコントロールしやすいからです。そして注目するべきなのが聖書信仰なのか、イエス様を見るかになります。

  • クリスチャン同士でないと結婚してはいけない
  • 神社に行ってはだめだ
  • 弟子訓練に参加しなさい     

 

ヨハネの弟子はこう言いました。

私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。

 自分は、これだけ守っている。私たちは素晴らしくて、それ以外は間違いだと考えると傲慢になり落とし穴があります。

エスの教えはこうです。

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。 

 

あれもやって、これも守って、、、となると、守れなかったときに罪悪感が出てきます。罪悪感は神からのものでしょうか?

新しい布切れとは

こういうわけで、今は、キリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。

聖書を使い人を裁いてきた

キリスト教の歴史を見ると、聖書で人を裁いてきた事実があります。その一つにアメリカのインディアンの宗教迫害があります。ここでは触れませんが、かなり酷いことをしています。そして、インディアンの方がイエスの教えに近い行動をしているのではないかと私個人的に思います。

 

この神の為なら、土地を奪い、人を殺すという過激な発想は、旧約ヨシュア記からきているのだそうです。聖書の読み方を文字通り解釈しないといけないと教えられた方は注意必要かもしれません。

 

まとめ

私たちは聖書によって人を裁くのではなく、隣人愛をもって人を愛すること、それを実行することが神様の命令だと思います。聖書の読み方もいろいろな読み方があり、これが正しい教えなのか吟味する必要があります。 

 

 ※これは私個人が学んだことを記事にしているので、あくまでも参考程度で。これからも聖書観、信仰は変わりうること了承してお読みください