見えるものは過ぎ去り、見えないものは永遠に

私たちは、見えるものに目を奪われやすいものです。見えないものを見ようとしなかったりします。

 

信仰生活において、他の人が見て信仰深い人は、神様から見てどうなのだろう?そして信仰深い人の基準は、私たちの知らぬ間に勝手に歩き出しているのではないかと感じます。

 

第二コリント4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。   

 

一時的な見えるもの(お金、健康、家族、学歴、知識、地位、友人関係)をあたかも真実のように「神様を信じたら祝福された」と言う方がいますが、この見えるものたちを持ってないと信仰がない、祝福されていないということでしょうか?

 

見えるものによってではなく、見えないものを信じ、信仰に生きたいものです。そして見えるもので人を判断してはいけないことを心に留めます。

 

そしていつでもイエス様は苦しんでいる人々、貧しい人々を憐れんでくださります。

 

第二コリント5:16

私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。  

 人を見るとき、人と話すとき、「私は知っている、私は見えている」と思うとき、傲慢になるのだと思います。

 

余談

私は文化や伝統、他の宗教を否定してまでも押し付けるキリスト教には反対です。そして教会成長だけを目的とした宣教も。あるフレンド派の教会に行っていた方にお会いする機会があり、フレンド派について調べてみました。フレンド派は私の信仰に近く、このような教会、宗派があることに嬉しくなりました。フレンド派の人口は残念ながら減っているようですが、もう少し個人的に学んでみたいと思います。

 

  ※これは私個人が学んだことを記事にしているので、あくまでも参考程度で。これからも聖書観、信仰は変わりうること了承してお読みください。

 

 

バルト神学の真髄

バルト神学の真髄

 

 

 

聖書信仰?

 

私は今まで、インターナショナルチャーチ、教会成長を詠う教会に通っていましたが、信仰のいきずまりを感じ、教える隣人愛とかけ離れていると思い、今は年配の方や障害のある方、貧しい方などいろいろな方が来られる教会の聖書勉強会に参加しています。

 

先週も実りある勉強会となりました。私たちの牧師は、教会の組織、欲望など全くなく、使命に全うしている方です。そこで学んだことをまとめていきます。

 

教会員を増やすことが目的になると

 必ず欲が出てきます。そして人を縛ろうとしたり、律法主義に陥ったりします。人は縛ると、上の人がコントロールしやすいからです。そして注目するべきなのが聖書信仰なのか、イエス様を見るかになります。

  • クリスチャン同士でないと結婚してはいけない
  • 神社に行ってはだめだ
  • 弟子訓練に参加しなさい     

 

ヨハネの弟子はこう言いました。

私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。

 自分は、これだけ守っている。私たちは素晴らしくて、それ以外は間違いだと考えると傲慢になり落とし穴があります。

エスの教えはこうです。

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。 

 

あれもやって、これも守って、、、となると、守れなかったときに罪悪感が出てきます。罪悪感は神からのものでしょうか?

新しい布切れとは

こういうわけで、今は、キリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。

聖書を使い人を裁いてきた

キリスト教の歴史を見ると、聖書で人を裁いてきた事実があります。その一つにアメリカのインディアンの宗教迫害があります。ここでは触れませんが、かなり酷いことをしています。そして、インディアンの方がイエスの教えに近い行動をしているのではないかと私個人的に思います。

 

この神の為なら、土地を奪い、人を殺すという過激な発想は、旧約ヨシュア記からきているのだそうです。聖書の読み方を文字通り解釈しないといけないと教えられた方は注意必要かもしれません。

 

まとめ

私たちは聖書によって人を裁くのではなく、隣人愛をもって人を愛すること、それを実行することが神様の命令だと思います。聖書の読み方もいろいろな読み方があり、これが正しい教えなのか吟味する必要があります。 

 

 ※これは私個人が学んだことを記事にしているので、あくまでも参考程度で。これからも聖書観、信仰は変わりうること了承してお読みください

神に従いなさい?

よく自己啓発系教会?で耳にする

「自分の夢を諦めたら神様がもっといいものをくれた。」

「自分じゃなく神様が選んだ人と結婚したい。」

「自分中心に生きているから、人生うまくいかないんだよ」

「神様が与えてくれるまで待ちなさい」など、自己を否定し神様に従いなさいと言うフレーズ。

 

自分のことを話すならまだ良いですが、状況も分からず他人にまで「夢を諦めなさい」「神様が、与えてくれるまで待ちなさい」と一方的に言うのはどうかと思います。

 

神様か人間か

それでは、神様からか、人の意志なのかどうやって見分けるのでしょうか。

 

神様は人間に自分で考える力を与えてくださっています。

 

もし、あなたの子供が「夢があるんだけど、諦めたらいいのか、どうしたらいい?」と聞かれて、何と答えますか?

 

まさか「諦めて、これからは何でも自分に相談してから決めなさい」とは言わないでしょう。

 

「失敗してもいいんだよ。自分の力を試してみなさい。私は、あなたをサポートするから。」となると思います。

 

もし成功した結果は神様の導きで、失敗したら自分中心を悔い改めて、「神様に従おう」となると可笑しな話になります。

 

人はうわべを見る

失敗は必ずしも悪いものではないと思うのです。祈りの中で神様の導きを求めることは大切ですが、人に対して「あなたは神様に従っている」「あなたは神様に従ってない」と誰も言えないのではないでしょうか?

 

結論

自分のベストを尽くして、他人に口出ししない。

 

フィリピのは信徒への手紙2:12b-13

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 

※これは私個人が学んだことを記事にしているので、あくまでも参考程度で。これからも聖書観、信仰は変わりうること了承してお読みください

 

 

初めまして

初めまして。

 

これからこのブログを末長く育てていきたいと思うのでよろしくお願いします。

 

自己紹介

6年前から教会に通い、クリスチャンになりました。学んだ事を記録していきたいと思います。

 

主に福音派、聖書は一字一句神の言葉だと言う風に教えられてきましたが、律法主義、排他的考えに疑問を持っています。

 

いろんな角度から、いろんな視点で神様について学んでいけたらと思います。